グイノ・ジェラ−ル神父の説教
2017年 A年
年間第23主日から
年間第34主日まで
(王であるキリスト)
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年間第33主日
王であるキリストの主日
年間第23主日 A年 2017年9月10日 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル 33,7-9 ローマ13,8-10 マタイ18,15-20
今日の福音が勧めていることを実現するのは、かなり難しいです。 なぜなら現代では利己主義と個人主義があらゆるところに溢れているからです。 私たちのうちの誰が他の人のところへ行って、その人の生き方に対して咎めることができるでしょうか。 人が犯している罪は、私たちの問題ではありませんし、その罪を公に知らせても私たちと全く関係のないことです。 彼は自分の良心に従えば良いのです。 罪は彼自身の問題です。 私たちと神との個人的な関係だけが、私たちの問題です。 私たちは自分の命の責任者ではありますが、他の人の命の責任者ではありません。
しかしイエスは、私たちの個人的な態度に、キリスト共同体的な領域を付け加えることを強く要求しています。 キリスト者である私たちが、他の人々の責任も持っているとイエスははっきり教えています。 世の初めから、神は昔カインに言ったことを私たちにも言っておられます。 「お前の兄弟は、どこにいるのか」(参照:創世記4,9-10)と。 私たちは「知りません。 わたしは兄弟の番人でしょうか」という、カインの答えを神に決して返さないように気をつけましょう。 なぜなら、今日イエスは「あなたは兄弟たちの責任者です」と断言していますから。 既に、神は預言者エゼキエルを選んだ時に、それを教えました。 「わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとしました」と。
自分が完全な者にならない限り、他の人々を咎めることはできません。 イエスご自身がそれを教えています。 「人の目にあるおが屑を取り除くために、まず自分の目から丸太を取るべきです」(参照:マタイ7,3-4)と。 またイエスがファリザイ派の人々に言い返した言葉も同じ教えです。 「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(参照:ヨハネ8,7)。 人の過ちを咎めるために、私たちが愛と謙遜の態度を保つこと、と同時に憎まれること、見捨てられる可能性を受ける覚悟を持つことが必要です。
今日の福音の箇所でマタイは二回続けて「教会」という単語を使います。 この教会のかしらは、イエスご自身です。 わたしたちはキリストの体の部分です。 「教会」という言葉を使ってイエスは「私たちがキリストの名によって集まっているからこそ、イエスは私たちの間に居ることができる」ということを理解させようとします。 そういう訳で、父なる神の愛する子供たちになるために私たちはお互いの助けを必要としています。 教会の使命といえば、それはキリストのもとに私たちを集めることと同時に、キリストが与える一致を守ることです。 罪のせいで、私たちを結び合わせる絆がゆるんでいたり、または断絶の危険性があるからです。 ご自分の死と復活によって、イエスが与えた教会の一致を守るために、私たち一人ひとりは大きな責任をもっています。
実際にキリスト者は、小教区の共同体の判断と決定を受け取ることに賛成する人です。 自分の共同体に対して信頼することを承諾することで、キリスト者は神の手の中に安全に置かれています。 そういう訳で、信仰はいつも他の信者と結ばれた関係によって強められ、正しい方向に向かっています。 私たちの間におられるキリストは、私たちを集めご自分の教会として一致させます。 このように、私たちはキリストと共に一つの心、一つの体、一つの霊となります。 一つになって、その交わりを守る使命こそが私たちの責任です。 ですから、共同体の兄弟姉妹がすることについては、私たちは無関心でいることができません。 むしろ、一緒にキリストに結ばれて、救いの道を私たちは歩むように努力しましょう。そうして聖パウロが進めているように「互いに励ましあい、お互いの向上に心がけましょう』(1テサロニケ5,11)。 アーメン。
年間第24主日 A年 2017年9月17日 グイノ・ジェラール神父
シラ書 27,30-28,7 ローマ14,7-9 マタイ18,21-35
借金の返済から自由になったばかりの家来が、自分のように返済不能の仲間を牢に入れたのは、貸したお金を取り戻すためでした。 法律はこの家来の味方です。 この家来は人間的なやり方に従ったので、全く不正なことを行っていません。 ところが、この家来の借金を帳消しにして、考えられない憐れみを示した王は非常に怒りました。 そして家来の憐れみのない態度を真似て、彼の借金をすっかり返済するまでこの家来を牢に入れました。 これこそ神のやり方です。 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」とイエスは断言します。
しかし、私たちの間に一体、誰が「心から兄弟を赦しました」と言えるでしょう。 また誰がこの共同体の兄弟姉妹に対して一度も非難と深い恨みをいだいていなかったと言えるでしょう。 そのために私たちも弟子たちと一緒に、イエスに次のように質問しましょう。 「それでは、だれが救われるのだろう」(参照:マルコ10.26)と。 確かに今日のたとえ話の結論を見るなら、家来も彼の返済不能な仲間も牢の中で、自分の人生を終わります。
イエスに有罪の判決を下した最高法院の人々は、ピラトに次のように説明しました。 「わたしたちには律法があります。 律法によれば、この男は死罪に当たります」(参照 :ヨハネ19,7)と。 人間の律法はイエスに死をもたらしました。 法律なしには暴力と不正が簡単に世界を支配することができます。 しかし法律は必ず有罪の人を作ります。 神の前で私たちは皆返済不能の人です。 そのために十字架の苦しみによって、イエスは私たちの身代金を支払いました。 イエスは私たちの借金を帳消しにしただけではなく、私たちを有罪と判決を下していた律法を完全に取り除きました(参照:コロサイ2,14、1ペトロ1, 18-19)。
「これはあなたがたのために渡された私の体です」。 ミサに与るたびに私たちはこの言葉を聞いています。 このイエスの言葉によって、私たちの心が神の恵みを受けるようになります。 また全ての人の罪の借金を帳消しにし、全人類に救いをもたらすのです。 この言葉によってイエスは「目には目、歯には歯」という厳しい仕返しに終わりを与えました。 私たちを騙したり、傷つけたり、軽んじたりした人々を受け止めるためには、赦しの道しか私たちには開かれていません。 赦しは限りがないとイエスは教えています。 事実イエスにとって人に与えられる赦しと和解が、神に捧げられる礼拝と供え物を遥かに越えています。 「あなたが祭壇に供え物を献げようとして、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(参照:マタイ5,23-24)と、イエスは教えています。
赦しだけが私たちを神のいつくしみと愛の世界に導入するのです。 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい…赦しなさい。 そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。 そうすれば、あなたがたにも与えられる…あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(参照:ルカ6,36-38)と、イエスは私たちに納得させます。
私たちが与える赦しに神の平和がいつも伴うことを決して忘れないようにしましょう。 赦すことによって、私たちは神に似る者となり、神が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い人となります。 赦すことによって、また、私たちは平和のために働く人やキリストの真の弟子たちとなります。 更に、赦すことによって聖霊は私たちの内に強く働くことができ、そして私たちの行いを正しく導くことができます。 赦すことは神に栄光を与え、救いの門を大きく開きます。 ですから、赦しの人、憐れみ深い人となりましょう。 アーメン。
年間第 25主日A年 2017年 9月 24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ55,6-9 フィリピ1,20-24、27 マタイ20,1-16
今日のたとえ話を通して救いが全ての人に与えられ、そして私たちがどんなことをしてもその救いに値していないことをイエスは教えています。 なぜなら、私たちは全てを無償で神からいただいたからです。 永遠の命は、皆に与えられます。 ですから、この命を拒まないことが大切なことです。 朝から晩まで私たちの生涯に亘って神は救いへの招きを絶えず繰り返します。
神は愛であるからこそ、諦めずに人々に呼びかけるとイエスは教えています。 特に、神は自分のぶどう畑つまり自分の教会のために働く人を探し求めます。 「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9,37)と。 ところで、私たちは自分が所属する小教区のために手を貸す覚悟をしているでしょうか。 教会の掃除をすることをはじめ、様々のグループに参加すること、或いは小教区のために祈ること、これらに参加することは主のぶどう畑で働くことです。 神のぶどう畑にはするべきことが様々ありますので、誰でも才能の有る無しにかかわらず、皆に自分に相応しい場所があります。 神の国の建設のために皆の協力は不可欠です。
洗礼を受けた日に、私たちは神の呼びかけに答えました。 しかし、人との出会い、また世界の出来事を通して、神が私たちに与える新しい呼びかけに敏感であることが必要です。 熱心に祈れば、私たちの心に住む聖霊が、神が望んでおられることを私たちが見分けられるようになさいます。 また、ご自分を与えることによって神はそれぞれの人に同じ報いを与えます。 ですから、自分が行ったことを他の人が行ったことと比べることは無意味です。 さらに、他の人よりもするべきことを早く上手に出来ることを、自慢して彼らを軽蔑することも意味がありません。 ただ、愛と感謝のうちに各々の力に応じて行いましょう。 そして、神に頼まれたことを行なった良い僕として次の様に言いましょう。 「わたしどもは、取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです。 」(ルカ17,9)と。 それを宣言するために聖パウロの言葉も度々思い起こしましょう。 「神は人を分け隔てなさらない方です」(参照:使徒10,34)と。 実際、神は私たち一人ひとりを個人的に完全な愛で愛して下さるからです。
一方で神が自分のぶどう畑の働き手を探し求め、他方では私たちが神を探し求める必要があると預言者イザヤは思い起こさせます。 なぜなら、「わたしたちの考えは、神の考えと異なっています」から。 私たちが神を求めているもう一つの理由は、聖パウロが教えているように「神の栄光が私たちの体に現わされますように」そして、「私たちがひたすらキリストの福音に相応しい生き方を送るためです」。 このようにして預言者イザヤも聖パウロも私たちの日常生活の中心に神と神の言葉をおくように強く招いています。 それは、私たちがどうしても聖パウロと共に「わたしにとって生きるとはキリストです」と言うことが出来るためです。
ですから、私たちは神のぶどう畑に働くように選ばれているので、心を尽くして神に奉仕する喜びと感謝を歌い捧げましょう。 アーメン。
年間第26主日 A年 2017年10月1日 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル18,25-28 フィリピ2,1-11 マタイ21,28-32
私たちの心はいつも矛盾を抱えています。 なぜなら、私たちの心は一緒に「はい」と「いいえ」を言うからです。 それだけではなく迷って、自分が決めたことの反対の方向に心が向かうこともあります。 聖パウロはこの矛盾を見事に表現しています。 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7,19)と。
この状態は疑いもなく、現代社会における一つの目立つ悲劇です。 人々の約束は実現されず、彼らの行いはその逆を行います。 というのは、政治家のスピーチの公約やメディアの賢い説明もすべて怪しいものであるので、容易に私たちは信じることができないです。
「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」 ぶどう園で働くことは具体的な行いによって、この世を前よりも良いものとすることです。 そこで、福音は私たちに簡単なことを要求します。 それはほんの少しのいつくしみ、無償の微笑み、分かち合いの実践、友愛訪問、他の人々のために捧げられた時間、貸したほんの少しのお金などです。 言い換えれば、ぶどう園へ行くことは他の人々のところへ行って、彼らのために良いことを行うことです。
フィリピの信徒への手紙がその正しい態度を教えています。 それは、すべての人に謙遜に仕えたイエスを私たちが真似るように聖パウロは勧めています。 「どうか、キリストのうちにある同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください」と。 自分に生きるよりも、自分の事ばかりを考えるよりも、私たちが人のために生き、人のことを考えることこそ「父なる神のぶどう園で働く」ことです。
私たちは度々意見を変え、言葉と行いが矛盾していることを知っているので、神は私たちに新しく出発するチャンスを与え続けます。 これこそ、今日の預言者エゼキエルのメッセージです。 「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」と。 私たちの過去の傷にも拘らず、犯した罪の悔いの重さにも拘らず、人はいつか変わることができると神は信じています。 完全に失われた者は見捨てられていません。 必ず私たちは変わることができ、自分の運命は始めから決められているのではありません。 人が神に対して忠実であれば、神と共にすべてを新たにすることができるのです。 そういうことを納得させるために、イエスは徴税人と娼婦たちを模範として私たちに見せます。 彼らはイエスの愛のメッセージを信じたので、自分の生き方が完全に変化しました。確かに、彼らは間違った生き方によって、神に最初に言った「いいえ」が、新しい生き方によって生きた泉のように湧き出る「はい」を神に向かって言えるようになりました。
神の恵みを受けて悔い改める人は、罪を犯したことを深く悲しみながら、赦されたことで喜びの涙を流します。 この涙は、新しい洗礼のように人を清め、そしてこの涙はその人を新たにします。 「回心して、そうすれば生きるでしょう」(参照:エゼキエル18,32)と神が私たちに願っています。「回心して福音を信じなさい」(参照:マルコ:1,14)と、イエスもまた私たちに勧めています。 私たちは他の人よりも良い者ではないので、神によってみんなが新たにされる必要があります。 ですから、私たちは自分の心の中に回心する決意を失わないように努めましょう。 そして、揺るぎない信頼をもって父なる神の愛とすべてを新たにする聖霊の力に自分のすべてを委ねましょう。 アーメン。
年間第27主日A年 2017年10月8日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 5,1-7 フィリピ 4,6-9 マタイ 21,33-43
今日の典礼において、私たちはぶどう畑の象徴について黙想するように誘われています。 ミサ祭儀に与る度に、キリストの御血に変化するぶどう酒を捧げる事によって、私たちは全人類に対する神の救いの計画を思い起こします。 同時に、私たちの人生が良い実を実らせるために、耕作するべきぶどう畑のようなものだと思い出させます。 「わたしはよいぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と 昔、神の名によって預言者イザヤは、イスラエルの民は神が待ち望まれた良い実を結ばなかったことを厳しく咎めました。 ところで、私たちはイスラエルの民よりも神の期待に応えて良い実を結ぶことができるでしょうか。
イスラエルの民が神からどんなに大切にされても、絶望的になったと言うたとえ話を通して、イエスは神に対する人間の歴史の不忠実さを語りました。 同時にイエスは近い内に起こるご自分の死を告げます。 たとえ話の農夫たちは、ぶどう畑の持ち主の期待をわざと無視した上で、主人の存在なしに済ませようとしました。 現在の人々も、イエスの時代の人のように、神なしで済ませることや、神がくださったすべての物を自分の利益のためだけに利用しようとします。 たとえ話の農夫たちを真似して、人々はこの世の本当の主人を認めず、神を無視して、自分たちがこの世の支配者だと思い込んでいます。
しかし、いくら人間が神を拒否しても、神は必ず世界に対する救いの計画を実現します。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3,16)、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世を救われるためである」(ヨハネ3,17)と、聖ヨハネは教えています。 いつか、神のぶどう畑は良いぶどう酒を与え、そのぶどう酒を私たちが神の国で味わい飲むように、私たちは皆招かれています。 神が私たちを救うために決定したことは必ず成功します。 なぜなら、神だけが悪い状態から良いものを取り出し、死から新たにされた命を強く湧き出させることができるからです。
自分たちの物でないものを奪うために、たとえ話の農夫たちは主人の息子を殺す計画をしました。 洗礼を受けた日から私たちは主のぶどう畑の新しい管理人になりました。 ですから謙遜になって、神の期待に耳を傾け、それを注意深く実践するために、良い僕になりましょう。 聖パウロが模範的なぶどう畑として紹介するフィリピの教会の信徒を見習いましょう。 たとえ話の農夫たちのように、神が私たちに委ねられた人生においてその中で実った実を、神に返すために私たちは責任を受けました。 特に私たちが結実するべき実は聖霊の実りであり、それは分かち合い、赦し、平和、正義、喜び、助け合いの実です。
良い実を結ぶことは、自分の責任を果たすことです。 つまり、神が望まれたことを度々自分ができなかったということを、勇気をもって認めることです。 良いぶどうを実らせることは、聖霊の助けによって、主のために、主と共に生きることであり、そして神の国が来るように強く待ち望むことです。
良い実を結ぶことはまた、信仰の兄弟姉妹にとって役に立つ人になることを望み、喜びと謙遜のうちに、彼らに奉仕することを具体的に示すことです。 言い換えれば、自分の心の中で人々と分かち合いたい希望と神に感謝する決意を育てることです。 ですから、今日の詩篇の言葉をもう一度繰り返しましょう。 「主よ、わたしたちはもはやあなたを離れません。 あなたは私たちを生かし、御名を呼ばせてください。 万物の神、主よ、わたしたちを立て直してください。 御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」(参照:詩篇80,19-20)。 アーメン。
年間第28主日A年 2017年10月15日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ25,6-9 フィリピ4,12-14、19-20 マタイ22,1-14
東方では、結婚の際に1年前から招待客にお知らせをする習慣があります。そして、結婚の日が近づいて来ると、もう一度お客さまを呼ぶのが伝統的なやり方です。今聞いたばかりのたとえ話は、この習慣に従って王様が行いました。この王様とは、ご自分の子イエスの披露宴に私たち一人ひとりを招く神ご自身です。預言者イザヤはずっと前から私たちに神の招きを聞かせました。「その日には、万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」と。
今日、教会はその招きを新たにします。しかし、神の食卓に食欲のない全人類をどのようにして座らせるのでしょうか。たとえ話によると最初に招かれた客はみんな考えられない暴力で王の招きを無視して、その上、王が遣わした召し使いを虐待して殺してしまいました。このたとえ話の王と同じように、神も諦めずに披露宴の宴会場を満たすために至る所で人を招き続けるでしょう。どんなに社会的状況や身体的な状態、あるいは道徳心が悪くても、私たちは例外なく招かれています。神は限りなく良い神であり、神の慈しみはこの世を変容させ救います。イエスは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マタイ9,12)。また、イエスは「失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19,10)。
「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」と聖パウロは証ししました。私たちはみんな、神の愛によって変容されるに相応しい人です。神の愛は、宴会に参加するために必要な礼服である神の栄光で私たちを包みます。この礼服、すなわち救いの衣は、神の慈しみと愛で、聖霊によって織りあげられています。これを理解するために聖ヨハネの黙示禄の言葉を思い起こしましょう。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は、用意を整えた。花嫁は輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙示19,7-8)と。
洗礼を受けた時に私たちはこの宴会の礼服、祝いの衣を着ました。私たちは神の喜びのうちに入るように、また、神が私たちのために行ったことを私たちが感謝するように招かれています。私たちがまったく出来ないことを、神が私たちに代わって行います。神は私たちみんなを同じ礼服、同じ美しさ、同じ栄光で包みます。神はどうしても、私たちと一致して喜びたいので、ご自分のすべてで私たちを包みます。
主の食事に招かれている私たちは幸いです。「楽の音に合わせて喜びの叫びのうちに主を迎えましょう」(参照:詩編95,2)。キリストの教会、また私たちの共同体が神の喜びのしるしとなるように聖霊に願いましょう。なぜなら、ご自分の子イエスによって贖われたこの世のすべての人々を、神はその喜びのうちに引き寄せたいからです。アーメン。
年間第29主日 A年 2017年10月22日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ45-1,45 1テサロニケ 1,1-5 マタイ22,15-31
ご存じのようにイエスの敵たちは、3つのグループの人たちでした。 一番の敵は、サドカイ派の人たちで、彼らは政治と宗教の一番高いレベルの立場に置かれて、イスラエルの国を占領するローマの支配者と平気で結託する人たちです。 2つ目のグループは、律法を無視し、ヘロデ王に従うヘロデ派の人たちで彼らもヘロデ王の権力をコントロールするローマ人の協力者たちです。 最後のグループの人たちは、自分が清い、模範的だと自慢するファリザイ派の人たちで、彼らはローマ人との関係をすべて強く拒んでいます。 自分たちが異邦人や徴税人や罪びとと全く違っていることを示すために、彼らはいろいろな宗教的な祭儀や行いを増やしていました。 この三つのグループは、一致するものがないにもかかわらず、イエスを罠に陥らせるためには意見が一致しました。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と彼らは尋ねます。 このファリザイ派の人々は、決して律法の正しい理解を勉強しようと思っていません、むしろイエスの名声を台なしにする決意を持っています。 彼らの罠に直面して、イエスの答えは一般の人にもとても有名です。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。 そう言って、イエスは厳しくファリザイ派の偽善を告発し、また彼らを神の意志の前に置くのです。 なぜなら、律法を守るつもりでファリザイ派の人々は、皇帝に相応しいものを神に当てはめるからです。 ファリザイ派の人々は、「神が望まれた罰として、ローマ人がイスラエルの地を占領することになった」と信じていました。 ですから彼らにとっては「ローマ人に反抗することは」神の計画に反抗することであり、また、「ローマ人と協力し結託することは」公に大きな罪を犯すことです。
ファリザイ派の人々は、イエスにお世辞を言いながら彼に出会いました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」と。 このお世辞の言葉に応えて、イエスは彼らに神の道を見せながら、はっきりと彼らが神に対して、自分たちの責任を果たすように勧めます。
お金も、政治の権力も人間の作ったものです。 上手に使えばお金と権力は愛の道具になる可能性があります。 しかし、悪い使い方をするとお金も権力も、とても危険な状態を起こすことができます。 神の似姿で創られた人間は、政治の権力やお金の力、経済の働きに属する者ではありません。 私たちは「神の神殿」(参照:1コリント3,16)です。 人間はただ神に属する者です。 神が愛するように、人間同士が愛するために神の似姿に創造されました。
「皇帝は全能でないこと、そして皇帝は神でないこと」を自分の反対者たちにイエスは思い起こさせました。 ローマの皇帝は自分が支配している人々に税金を納めることを強要(きょうよう)することができますが、人の内面的な生き方については全く権利がありません。 「神のものは神に返すこと」とは、全人類の幸福のために自分の責任を果たすことを意味します。 これこそファリザイ派の人々が行いたい本当の「義の行い」です。 私たちは神の似姿で創造されたのですから、全人類の世話をしたキリストを模範としなければなりません。
ですから、愛する使命を実践するために、今聞いた聖パウロの勧めの言葉に、もう一度耳を傾けましょう。 「わたしたちが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 神に愛されている兄弟たち、わたしたちが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と。 アーメン。
年間第30主日 A年 2017年10月29日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト22,20-26 テサロニケ1,5-10 マタイ22,34-40
先週読んだ聖書の箇所はローマ皇帝に納めるべき税金について、イエスの敵たちは彼を罠にかけました。 今日は律法についてイエスに尋ねることで、彼らは再び罠にかけようとします。 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。 イエスは親密に結ばれている二つの掟を提案することで、彼らに賢く答えました。 そしてイエスは第一の掟を出エジプト記から、第二の掟をレビ記から引き出したのです。 イエスはわざと同じレベルに神と隣人を置くのです。 最後の審判のたとえ話を語った時に、イエスは既にそれをはっきりと示しました。 と言うのも、神と隣人は親密に結ばれていますから。 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ25,31-40)と。
イエスにとって「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(参照:1ヨハネ4,20)。 結局、イエスの名声を台無しにするために罠をかけた人たちは、彼らを救うためにイエスを遣わした神ご自身に反抗しています。 不思議なことですが、イエスを殺すことによってファリサイ派の人々とイエスの敵たちは神に奉仕していると思い込んでいます。 実は、彼らは自分たちの隣人を罠にかけることで隣人を捨てると同時に、神から遠ざかっています。 隣人を尊敬し愛する人は、神をも尊敬し愛する人です。 神を愛し神に奉仕することを主張する人は、どうしても神と同じように自分の隣人を愛し奉仕しなければなりません。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない…寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない」と第一の朗読が私たちに思い起こさせます。 というのは、隣人に対して悪い行いをすることは神ご自身に対して罪を犯すことだ、とモーセは教えています。 律法で自分たちの名声を得ようとしてイエスに反抗しているファリサイ派の人々は、その大切なことを忘れようとしています。 そのために、彼らへのイエスの答えがすぐ湧き上がって出ました。
この答えの中にイエスの完全な生き方の状況が現れています。 というのは、イエスは自発的に、また完全に父なる神に向かっている人です。 「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,34)と。 すべての人を救い、癒し、赦すため、そして父なる神に彼らを導くためにイエスは遣わされました。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(ヨハネ12,47)と。イエスはご自分の父である神を愛し、同時にご自分の命を与えるほどに私たちを愛しています。 このようにして、イエスは愛の二つの掟を実現します。 ご存じのように、神の手にご自分のすべてを委ねながら十字架上で死ぬ時まで、イエスは全生涯をこの愛し方で生きていきました。
人間になることでイエスは神の愛を人間らしくしました。 また、私たちを救うことでイエスは隣人愛に神的な広さを与えました。 そういう訳で、神への愛と隣人への愛の掟が親密に結ばれています。 きっと、私たちはキリストのように愛することはできませんが、愛することに対して目覚めている人となるように、聖霊の助けを願うことはいつでもできます。
イエスは至る所で無理解、軽蔑、無関心、憎しみ、死の脅迫を受けました。 ですから不信や嘘、土台のない批判が私たちを攻撃する時、愛することと赦すことの力を自分の心の中に保つために、イエスは私たちのすぐそばに居て教えています。 神と隣人に対する私たちの力強い愛が憎しみと悪の力に打ち勝ちますように。 また私たちがキリストの本当の弟子となるように、お互いの愛を強め合いましょう。 アーメン。
年間第31主日 A年 2017年11月5日 グイノ・ジェラール神父
マラキ 1,14-2,2、8-10 1テサロニケ 2,7-9、13 マタイ23,1-12
今日、預言者マラキは「目には目、歯には歯」という掟を厳しく行なう神を紹介しています。 即ち神のみ名を尊び、尊敬する人々は神の祝福を受けますが、神を無視し、その世話を拒む人々は神から無視され、見捨てられる人になるのです。 もし私たちの生き方が宣言する信仰とぴったり一致しないなら、私たちは、まるであのファリサイ派の人々のように「言うだけで、実行しない」偽善者そのものです。
私たちは外面的な生き方を見せがちです。 ある時人によい言葉と勧めを与えたかと思うと、傷つく批判を下して自分の意見を押し付けるが、そのことには指一本を貸さず、他人事として自分はその問題から逃げるために、役に立たない多くの上手な言葉で自分の内面的な生き方の欠如を隠そうとします。 このうわべだけの態度やファリサイ派の人々の生き方は、しばしば私たち自身の生き方であるという事実を正直に、謙遜に認めましょう。
言うだけで実行せずに、他人を批判することで彼らを支配しようとすることや、自分が皆から尊敬され、愛され、意見する立場を望むことこそ、絶えず私たちを襲ってくる危ない誘惑です。 自分が希望する理想的な生き方と実際の生き方、または自分の考えと行いが完璧に一致している人が、果たして私たちの間にいるでしょうか。 そのために互いを互いに世話をすることによって、謙遜になることをイエスは私たちに勧めています。 つまり、ファリサイ派の人のように、人との違いや利己主義や自己愛で自分をゆったり守るマントを身に纏わずに、むしろ他の人々を自分のように見て、大切にし、兄弟姉妹と同じように愛する事を学びましょう。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と、イエスは勧めています。 イエスにとって人に仕えることは決して恥ずかしい務めではありません。 イエスにとって「仕えること」は、神に倣うことであり、神のように行なうことです。 そして私たちの僕となったイエスに倣うことです。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2,6-7)。 謙遜になるために、勉強する必要性があるとイエスは教えています。 神のことばを知ること、自分の信仰を養うこと、聖人たちの生涯の物語を読むこと、霊的な指導者に伴われることは、キリスト者として生き続けるために肝心なことです。 その目的は、智恵のある者や賢くなることではなく、むしろ自分の内に聞き分ける心を作り、そして出会う他の人の要求やニーズの中で隠れている神の現存を発見するためです。 人の面倒を見て世話をするために、智恵と知識は仕える時にとても良いものです。
更に、自分の信仰を養うことによって、私たちはキリストについて証しすることや、まだキリストを知らない人々をキリストの下に連れて来ることも容易にできます。 本当のキリスト者は自分の心の中に、信仰を伝える希望とその信仰を絶えず強める意志を持っています。 聖パウロが手紙を通して教えているように、キリスト者はキリストの霊の賜物を自分の内に持っています。 この聖霊は私たちがイエスについて証しをするように後押しし、また私たちの生き方がキリストの生き方を真似るように助けます。
「あなたがたは神の言葉を聞いたとき、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。 事実、その言葉は信じているあなた方の中に現に働いているものです」(参照:1テサロニケ2,13)と、聖パウロは言っています。 イエスと聖書の教えは、私たちの霊的な生き方を生き生きとさせる力、また賢く私たちを強める力を持っています。 神の望みに従って生きる方法を、神の言葉は私たちに教えています。 つまり私たちは、神と人々に愛の絆をもって生きることを教えています。 ですから、私たちが神の言葉を受け入れたと同じように、互いを互いに受け入れ合うように学びましょう。 アーメン。
年間32主日 A年 2017年11月12日 グイノ・ジェラール神父
知恵6,12-16 1テサロニケ4,13-18 マタイ25,1-13
賢い乙女たちと愚かな乙女たちに対する正しくない理解があります。 それを簡単に言えば、自分の救いのために働く時間を取らなかった人は、天国の門に辿り着くとその門が自分のために開かれないことを見るでしょう、といった理解の仕方です。 しかし、このような考え方は、福音の本質的な特徴と反対しています。 なぜなら、福音全体は神の無限ないつくしみを示し、そして全ての人と持っているものを分かち合うことを勧めていますから。
今日のたとえ話は、特に神の神秘と人間の神秘について小さな光を与えます。 ランプの油は知恵の象徴です。 この知恵について今朝の第1朗読がよく語りました。 この知恵とは、人間に対する神の無償な愛です。 知恵の書が教えているように、「求める人には自分の方から姿を見せる。 知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う」と。
油の用意をした乙女たちは、神の無償な愛の啓示を受けとめた人たちの象徴です。 聖霊の油で満たされて、即ち乙女たちは自分たちの心に注がれた神の愛で、満ちています。 彼女たちは花婿をいそいそと迎える準備をして待っています。 なぜなら、信仰の夜の中で、自分のうちに発見したことがあるからです。 と言うのは、彼女たちが理解したのは、他の人の結婚式に招かれているのではなくて、花嫁として自分自身が招かれていることを理解しているからです。 彼女たちは花嫁として愛されて、創造主である神と結婚することを知っているので賢いのです。 彼女たちは、初めから王である神の花嫁となるように召されたことをよく知って、それに賛成しているので賢いのです。 彼女たちはいつか分らない、即ち夜明けなのか、夕暮れの時なのか分りませんが「主と出会うために、彼と一緒に雲に包まれて引き上げられる」(参照:第2朗読)ことを知って待ち望んでいたので、賢い乙女たちです。
「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」(イザヤ62,5)と、昔預言者イザヤは約束しました。 ですから、私たちはみんな神の花嫁、また婚礼者の新居、さらに神が留まる神殿となるように召されていますが、私たちはそれを果たして承諾しているでしょうか。
また、賢い乙女たちはキリストの教会です。 キリスト者たちは、既に披露宴の雰囲気を味わって、この雰囲気が長く続くということを知っています。 信仰の夜のうちに教会は出来るだけ神の愛の油をたくさん持つように準備しています。 しかし、愚かな乙女たちもキリストの教会です。 信仰の夜のうちに未来のことを心配せずに寝てしまう人たちです。 この愚かな者は、花婿が誰であるかを知っていても、神が花嫁として自分自身を迎えることをまだ理解していない人です。 また、愛するためにいつも時間があると思い込んでいる人は愚かな者です。 なぜなら、このような考えを持つ人は神と共に永遠に生きる使命を無視しているからです。
知恵を持つことは、信仰のうちに根を下ろして愛することを根気よく続けることです。 と言うのは、永遠の門をわたしたちに開くために迎えてくださるキリストはいつ来るか 、わたしたちは「その日、その時は、だれも知らない」(参照:マルコ13,32)からです。 今日のたとえ話は、良い出発をしても、終わりまで無事に辿り着くには、毎瞬毎瞬、準備している心を保つことが肝心です。 永遠の命は、今から始まっていると解かる人にとっては、天の門がいつでも大きく開いているのです。 アーメン。
年間第33主日A年 2017年11月19日 グイノ・ジェラール神父
箴言31,10-13、19-20、30-31 1テサロニケ5,1-6 マタイ25,14-30
イエスのたとえ話はいつも人を惑わせます。特に今日のたとえ話は僕たちの間で行なわれたタラントンの差別的な分配と利益への競争、そして何もできなかったので首にされた僕を見せようとします。この解雇された僕が言ったように、家の主人は「蒔かない所から刈り取る」厳しくて、不正を行なう人です。この主人は旅行から帰った時には、必ず自分が預けた財産は僕たちによって何倍にもなっていることが当たり前だと思い込んでいます。しかし、出発する時に彼は僕たちに預けたお金に利息付きで増やすように、と言う約束も命令もしませんでした。ですから、僕たちが預かったタラントンの利息を要求するのは不正なことです。そういう訳で、このたとえ話は不快な話です。
イエスの時代の1タラントンは30年分の給料に等しい大きな金の塊(金の延べ棒)でした。つまり、人が一生に亘って仕事をして受ける代価です。ですから、5タラントン、或いは2タラントンは膨大な財産です。私たちにとってこのタラントンは、特に神の国を建設する私たちの可能性を表します。またこのタラントンは周りの人々に福音のメッセージを伝える努力、あるいは自分の子どもたちに信仰の遺産を伝達する智恵、そして自分の才能を尽くしてこの才能を実らせることを示します。限りのない信頼を持って、神は私たち一人ひとりに必要な恵みを与えました。大切なことは、いただいた恵みが豊かな実を結ぶように心血を注いで働くことです。今日のたとえ話の教えは、神はご自分の王国の建設のために私たちを誘っておられるという教えです。それができるために、私たちが生き生きとして、いろいろ工夫をするように神は望んでいます。この世ではたくさんの可能性があるので、私たちは神と一致して創造できる者にならなければなりません。
そうであれば、私たちは一生懸命に働く者か、或いは自分の才能を隠している者かを、知るのはとても大切です。別に悪いことをせずに、何もしないと言う態度はその人が、良いことを行なっていることを決して意味していません。「私は恐ろしくなった」と3人目の僕が弁明します。彼はお金の無駄遣いをしませんでしたので、何も失いませんでしたが、特に何もしませんでした。この僕は、主人が彼をどれ程信頼していたかを理解せずに、不信と恐れに陥りました。自分を守るために彼は、主人は厳しい人で妥協をせず、怖い人だと考え始めたので、結局主人の寛大さを忘れてしまいました。私たちも、しばしばこの僕に似ています。特に自分を弁明するために、他の人に自分の過ちの重さを背負わせる時、あるいは自分を罪の意識から解放するために、他の人を批判する時などです。
神と人々に注がれている私たちの眼差しは、自分の生きる姿に現れ活動と態度を決定します。信頼を受けることで私たちは勇気を出し、何かをし始めるエネルギーと力を見つけます。神は限りのない信頼を私たちに示すので、この信頼に支えられ、美しく豊かな実を結びましょう。神が与えた才能を尽くすこととは、神が私たちに望まれる物事を実現することです。神の望みと一致することは、私たちにも神にとっても喜びの泉です。
ですから、聖パウロがテサロニケの信徒への手紙で勧めるように「目を覚まし、身を慎んでいましょう」。また第1朗読が紹介している模範的な妻を真似るようにしましょう。この妻を褒め讃えている理由は、愛と希望を持って彼女が日常生活の出来事を行なうからです。私たちも日ごとの務めを果たして、神の心を喜ばす「忠実な良い僕」となりましょう。アーメン。
王であるキリスト A年 2017年11月26日 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル 34,11-12、15-17 1コリント15,20-26、28 マタイ 25,31-46
今日の福音が宣言されたのは、私たちを恐怖に陥らせるためではありません。私たちのすべての行いが希望と愛をもたらすべきだ、とイエスは例え話を通して思い起こさせるのです。 私たちの行動を支え導くのは神の愛と隣人への愛だけであり、地獄の恐怖ではありません。 父なる神は慈しみと哀れみに満ち、善い方であり、すべての人が救われることを望んでおられます。預言者エゼキエルは、良い牧者として神を私たちに紹介しました。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを訪ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と。
神が私たちに近ければ近いほど、神は私たちと一体化するのです。 神は私たちの惨めさを見て強い衝撃を受けるので、人間になることを決めただけではなく、完全に私たちと一体化して私たちのすべてを自分のものとしました。「わたしは飢えていた、のどが渇いていた、外国人であった、裸であった、病気であった、牢にいた時にあなた方はわたしに助けを与えました。 しかしあなた方が自分の隣人にしなかったことは、私自身にしてくれなかったことなのである」とイエスは宣言します。
私たちは他の人に与えた、あるいは反対に断った単純な行いについて裁きを受けるでしょう。 事実この行いは、日常生活の素朴な行いです。 たとえば、泣いている子供を慰めるために真夜中に起き上がること、病気で苦しんでいる人を見舞い励ましてその人の世話をすること、お年寄りや体の不自由な人を介助すること、或いは近所の隣人の不幸や悲しみを分かち合うこと、更に孤独の中にいる人を訪問して彼らの代わりに家の掃除や買い物をすることなどです。簡単に言えば、日常生活の単純な行いによって、私たちは自分の永遠の住み家を準備することになるのです。 ですから、イエスと共に、イエスによってすべてを行うように神に恵みを願いながら、行ったよい業のために感謝し、行なわなかった業のために神の赦しを願いましょう…。
宇宙万物の王であるキリストは、栄光の内に座しておられます。 この栄光は神から出てきますが、同時に私たちの単純な業と兄弟的な愛で満たされた行いによってその栄光をキリストに与えています。 決して審判者であるキリストは、私たちをご自分やすべての人から離れさせようとは考えていません。 むしろ永遠の昔から父なる神が準備している愛と栄光のうちに、イエスは私たちを集め互いに結びつけご自分に近づけようとします。 ですから、イエスが私たちを愛したように、また私たちが自分自身を愛しているようにその隣人が誰であろうと深く愛しましょう。 これこそ、神の子とされたキリスト者である私たちの唯一の使命です。
神が悪から私たちを守るように、私たちも互いを互いに一致させることを妨げる物事を私たちの心から追い出すように願いましょう。 それは、高慢、利己主義、自己愛、恐れ、憎しみ、奉仕することへの拒否と言う「縛られている鎖」から解放されるためです。 更に私たちがキリストを真似てすべてを行うために、聖霊が私たちに勇気、愛徳、希望を与えますように。 最後に愛と赦し、助け合いと、共感の「接着剤」が私たちを一致させることができるように、お互いに祈り合いましょう。 とにかく出会うすべての人が、私たちにとって神ご自身のみ顔の啓示となりますように。 アーメン。
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